田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論
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Agora 1996年10月号


  ≪ われら地球人 ≫

 壁面いっぱいに広がる「赤」の色彩と独特のマチエール(絵肌)。
 27年前、インドへ渡り、そこに暮らす女たちに出会って以来、
 大地を踏みしめて生きるアジアの人々を描き続けてきた田村能里子さん。
 中国シルクロードでは、木が朽ち行くように美しく老いる老人たちに接し、
 西安で初の大壁画に挑んだ。
 客船「飛鳥」をはじめ、数々の壁画を手掛けてきたこの画家は、
 今、新たなるモチーフを求め、アジア第3の地タイで制作に励む。

      田村能里子
   インド、中国、そしてタイ
  アジアを描き続ける洋画家



 今、日本洋画壇にあって、やや異色な活動をしている画家がいる。その名田村能里子。
  まだ五〇を過ぎたばかり、長老の多い日本の画家の中では若手と言ってよい。

  日本では、洋画、日本画を問わず、どこかの団体に属し、年に一、二回の団体展出品を
 活動の軸としている画家が多いが、田村はどの団体にも属さず、自らの信条に基づいて
 制作する自由の画家である。
 その上、ややもすると制作の重心が壁画に傾く傾向がある点、他の画家と異なっている。

  すでに完成した壁画は十数点、100平方メートルを超える大作も少なくない。
  もちろん、一般的な意味での油絵(タブロー)の制作を怠っているわけではない。
 一昨年秋には、東京・名古屋・大阪で大規模な個展を開くなど、
 現在もっとも活動的な画家のひとりである。

      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

  では、田村能里子はどんな画家なのか。
 私は、田村芸術を解くためのキーワードが五つあると思っている。

 「人間」 「アジア」 「赤」 「壁画」 「人柄」
 順次このキーワードを緒って話をすすめよう。


  「人間」

  
田村能里子の描く対象は、徹底して人間である。
 花や木、動物等も描くが、あくまでそれは人間に添えたものであり、興味の対象は
 人間そのものである。

  田村は、名古屋で絵を志す人の名門校旭丘高校を卒業後、東京の武蔵野美術大学で油絵を
 学んだが、その頃から旅の芸人とか祭りとか、とにかく人間臭いものに興味を引かれていた。
  人間といっても、着飾った、高尚な人間や豊かな暮らしの金持ち階級のことではない。
 いつも自分の手足を動かして明日の糧を稼ぎだす、つまり自分の足で大地を踏みしめて
 暮らしている人々への限りない共感が根底にあった。
  果てしなく続く大地、流れの異なった時の刻み、貧しくとも心満つるを知る人々。
 この画家がふと知ったインドに引かれ、彼の地に旅立ったのは決して偶然ではなかった。
 一九六九年、時に二五歳。
  田村の好きな言葉を借りれば、
 「偶然が必然を連れてきた」のである。

「アジア」

 その頃、インドは日本人にとって、
それほど知られた国ではなかった。
たまたまその二年後、
テレビの取材でインド各地を二カ月に
わたって回った私の記憶では、
みるもの聞くものすべてが強烈な
迫力で迫ったきた。

 過酷な自然と貧困が容赦なくお襲い
かかる中で、人々はしなやかに、
かつしたたかに生きていた。
喧騒と混沌の街カルカッタに乗り込んだ
田村が受けた衝撃の強さは、想像に難しくない。

 しかしこの画家はしぶとく生き残った。
学校を出て間もない若い画家にとって、
ただ同然で雇ったモデルが好きなだけ描けることは、
何にも勝る幸せだったに違いない。
彫の深い目鼻立ち、すらりと伸びた四肢、
人のフォルムの美しさが改めて画家の心に染みた。

 下層階級のモデルや家主の夫人とのやり取りの中で、
徐々にインドを理解し、限りなくのめりこんでいく
自分を発見していた。
四年間の滞在は、田村の体の奥底までインドが
染み込むのに十分な時間であった。
帰国後、田村は蓄えたものを一気に吐き出すごとく、
インドの女を描き続けた。


 鮮烈な赤いサリーをまとい、鋭いまなざしの女たちは、日本画壇に田村能里子の存在を強く印象付けた。
その後も田村はおりあるごとにインドを訪れた。
 
 そんなある時、乾ききったタール砂漠の中に、不思議な壁画に囲まれた家々で心豊かに暮らす人々の存在を知る。
 これは伏流となって画家の体内をひそかに流れ、やがて中国で大きな奔流と化してほとばしることになる。


 「赤」

  乾いた砂や石壁の家に赤い色はよく似合った。
 田村は鮮血にも似た妖しい魅力を持つ赤が、体質的にも合う色であることを感じとる。
  赤は強い色だが、温かい色でもある。
 砂と汗にまみれたサリーの女たちも、田村の赤で救われているように見えた。
 赤は、微妙に変化しつつ、今もこの画家をとらえて放さない。
  もう一つ、田村の絵を特徴づけるものにマチエール(絵肌)がある。
 絵具を幾重にも重ねた絵肌は、色より質感に特徴がある。
 砂漠の風紋のようでもあり、土壁の肌のようでもある。
  風化した記憶の痕跡、過ぎ去った時間の集積、そんな厚みを持った肌合いは、インドで刻み込まれた
 画家自身の心の襞なのかもしれない。

「壁画」
 一九八六年、田村能里子に転機が訪れる。
文化庁の派遣による三カ月の中国留学が
思わぬ展開をもたらしたのだ。

 この留学で大きな収穫が二つあった。
一つは、中国の西の外れカシュガルで、
木が朽ち行くように美しく老いる老人たちに
巡り合い、自然に同化したその姿に強く胸を
打たれたこと。
この時から田村の絵に、深いしわを刻み、
遠くを見つめる男たちが登場する。

 もう一つ、歴史の都西安に建設される
日中合併の豪華ホテルのロビーに、大壁画の
制作を依頼されたことであった。

 当時日本経済新聞社の出版局にいた私は、
この話を聞き、日中友好の快挙を記録に
残すべきと思い、壁画制作の一部始終を
一冊の本『女ひとりシルクロードを描く』に
まとめた。
六十メートルに及ぶ大壁画を西安で見る
機会のない日本の人たちも、
本によって壁画を知り、スケールの大きな
「壁画も描ける田村」を知った。

 これを機に、田村は、競馬場、豪華客船、
レストラン等々、数々の大壁画を
手掛けることになり、壁画の第一人者となっていく。
インドのほかに中国を知り、壁画という新しい
表現手段を得て、田村の活動領域は一挙に
広がったのである。


 壁画を描くには、一般のタブローと違ったハードルが三つある。
  第一は、描く「場」の確保。
 ほとんどの壁画は建物の中にあり、ビルの持ち主または設計者から、場の提供を受けなければ描けない。
  第二は、時間との戦い。
 新しく建設する建物の場合が多いので、騒音と誇りの中、他の工事者と折り合いながら同時進行で
 絵も完成しなければならない。
 とくに建物との調和を重んじる田村は、異なった空間のアトリエで描いた絵を、建物に持ち込んで
 はめ込むような手法を決して取らない。
 必ず現場で、周りの環境を肌で感じながら直接壁面に筆を下すのである。
 そのため困難は倍増する。
 建物は公共の場、自ずと画題・表現に制約が生じる。
 その中でいかに個性を発揮し、建物と調和し、かつ多くの人々の共感を得られるか。
 限られた時間の中で、これは容易なことではない。
  以上の三点を考えた時、積極的で社交性に富み、明るく健康的な画風の田村は、その人柄とともに、
 壁画のために生まれてきた、と言ってよいかもしれない。

「人柄」

 「今日はお忙しい中、お集まりいただき、
ありがとうございました。夏の夜のひととき、
手作りのカレーなどお召し上がりながら、
ごゆっくりお過ごしください」
 今年七月、東京・世田谷のマンションの
一室で、集まった十数人の客を前に、
田村はにこやかに挨拶した。

 毎年数夜にわたり招かる客は、役人や会社の
役員もいれば、医者、マスコミの記者、現場の職人
等々、とにかく多士済々。
この人々は、壁画の提供者、協力者、絵のコレクター、
そしてそれらを世に知らしめるメディアの担当者たち
であり、田村の絵と人柄と絵画をに魅せられた友人・
サポーターたちの集まりなのである。
このカレーパーティーほど、人間田村を象徴する
イベントはない。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 乾いた砂と土壁が私の体質と言ってきた
田村が、今バンコクで制作続けている。
水と緑の国タイが、インド、中国に続くアジア
第三の地として、田村芸術にどんな転機を
もたらすのか。
 拡大と深化、公共性と精神性等々、
いくつかの課題を抱えながら、アトリエに収まり
きらない画家田村能里子は、
今日も明日に向かって突き進む。







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